平知度の首塚

平家伝説が残る「平知度の首塚」

平家伝説が残る「平知度の首塚」

 津幡町津幡地区の通称「平谷(へいだん)」には、平知度(たいらのとものり=平清盛の7男)の墓と伝えられている首塚が残っています。1183(寿永2)年の源平合戦の時、平維盛(たいらのこれもり=清盛の嫡男重盛の長男)の兵7万は倶利伽羅山に陣を取り、知度は従兄の通盛(みちもり)とともに兵3万で志雄山(現在の宝達山から北に望む一帯の山々)に陣を取っていました。倶利伽羅峠の戦いで、維盛が木曽義仲(きそ・よしなか)に敗れたことを聞いて援軍に来た知度は、激しい戦いの末、平谷において自害したと伝えられています(津幡地区の伝説「平知度の墓・首塚」の話より引用)。
 『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』29巻には、赤地錦の直垂に紫裾濃(むらさきすそご)の鎧を着け、黒鹿毛(くろかげ)の馬に乗る容貌優美な姿とともに、目じりは裂け、眉は逆さにつり上がった激しい表情で奮闘する知度の様子が描写されています。
 一帯の地名は「平谷」と呼ばれ、源平の戦いに敗れた平家の落武者が隠れ潜んで生活したところと伝えられています。『加賀志徴』によると、平谷は「平家谷」と記され、集落の入口にある首塚の側には大木の松が生え、「首塚の松」と呼ばれていました。ここに住み着いた末裔は、平田、平能、平林、平村を名乗り、現在でもこの首塚を大切に守り続けています。
 津幡町には、平家伝説が数多く残っています。河合谷地区の牛首(うしくび)・木窪(きのくぼ)の両区や英田(あがた)地区の菩提寺区も、平家の落人が村の開祖と伝えられています。菩提寺から近い「上矢田温泉・やたの湯」は、義仲に敗れた維盛がこの湯を見つけ、傷を癒(いや)したのが始まりとされています。

所在地 〒929-0323 石川県河北郡津幡町字津幡
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アクセス IR津幡駅から「津幡駅前」交差点を右折し、県道59号線に入ります。「横浜」交差点を右折し、道なりに直進すると、「中津幡」交差点に出ます。そこを右折し、踏み切りを越えて、さらに道なりに進みます。最初のY字路で「森林公園」方面の右側に進み、次のY字路で「南口」方面の左側に進みます。津幡バイパスの陸橋下を抜けると、右側に「史跡平知度朝臣首塚」の案内版が立っています。



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