濁澄橋

伝説が残る「濁澄橋」

伝説が残る「濁澄橋」

 津幡町河合谷地区の上大田区からかほく市を経て宝達志水町に向かって流れる大海川(おおみがわ)に、「濁澄橋(にごりすみはし)」が架かっています。この辺り一帯は古くから「餓鬼ヶ首(がきがくび)」と呼ばれ、川水が滞留し低地は沼地となっていました。大田村肝煎(きもいり)だった助四郎(すけしろう)は、この沼地の開墾に尽力した人物として伝えられています。
 その昔、大海川が流れる北側の山を能登餓鬼ヶ首、南側の山を加賀餓鬼ヶ首と呼んでいました。川は曲がりくねり、辺りの低い土地は沼地になっていました。
 ある時、上大田に住んでいた助四郎は加賀餓鬼ヶ首を開墾すれば、川も真っ直ぐになり、沼地やそれまで曲がりくねっていた川辺が耕地になり、収穫も増えると思い、実行することにしました。しかし、不思議なことに、この加賀餓鬼ヶ首は昼の間にいくら切り開いても、次の日になると元の通りになっていました。そんな日が何日も続いたので、村人たちは夜通し交代で働き、ようやく山を切り開くことができました。
 この時、山から真っ赤な血のような水が湧き出てきて、大海川へと流れ込みました。でも、橋が架かっている辺りまで来ると、赤く濁っていた水は澄んできれいになっていました。それからは、この橋は「濁澄橋」と呼ばれるようになりました(河合谷地区の伝説「餓鬼ヶ首と濁澄橋」の話より引用)。
 この伝説を裏付けるかのように、1656(明暦2)年の総収穫量は、慶長年間(1596〜1615年)の総収穫量と比べると、一挙に約5割も増加しています。
 「餓鬼ヶ首」という地名は、七日七夜の間、川が赤く染まり止まることがなかったことから、村人たちは「餓鬼が首を切られたその血であろう」といい合い、それから「餓鬼ヶ首」と呼ばれるようになったそうです。
 「濁澄橋」にはかつて、1926(大正15)年に老朽化した河合谷小学校の改築費45,000円を捻出するため、村をあげての禁酒が実施され、それを知らせるために建てられた「禁酒の碑」が置かれていましたが、現在は河合谷ふれあいセンターの前庭に置かれています。
肝煎:加賀藩の村支配を代行する村役人。
餓鬼:生前の罪のむくいで、餓鬼道に落ちた亡者をいう。餓鬼道では、常に飢えと渇きに苦しみ、しきりに水や食物を欲しがるが、物を飲み食いしようとするたびに、その水や食物は濃い血膿や炎と化してのどを通らない。

所在地 〒929-0309 石川県河北郡津幡町字上大田
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アクセス 津幡町市街地から県道59号線に入り、かほく方面に進みます。「御門」交差点で右折し、県道221号線を河合谷方面に進みます。そのまま道なりに進み、興津峠を越えると、国道471号線に入る三叉路に出ます。そこを左折し、右手に見える「滝の谷霊水」を過ぎると、かほく市に入る手前に大海川に架かる「濁澄橋」があります。



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