本福寺

津幡町文化財指定の「本福寺」梵鐘

津幡町文化財指定の「本福寺」梵鐘

 津幡町中条地区の北中条にある本福寺(ほんぷくじ)には、約300年前に鋳造され、1973(昭和48)年に津幡町文化財に指定された梵鐘(ぼんしょう)を始め、室町時代初期の作と言われ、伝説も残る阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)などが安置されています。
 同寺院の梵鐘は、1709(宝永6)年8月に今石動(小矢部市)の弥名寺の鐘として、金沢泉野の平井與四兵衛家次が鋳造しました。梵鐘の池の間(鐘の中間にある面)三区の追銘(ついめい=追刻されたもの)と吊金具の銘から、20年後の1729(享保14)年に本福寺9世の寿證がこれを求めたことが分かります。
 梵鐘は鋳銅製で、総高 116センチ、口径68.2センチ、縦帯に六字名号が陽鋳(ようちゅう=鋳型の段階で文字を彫る)されています。銘文は池の間一・二区に原銘が、三区に追銘が陰刻(いんこく=文字や模様を凹状に彫ること)されています。吊金具は鉄製でカギ形、39センチあり、在銘の吊金具としては大変珍しいものです。
 同寺の前住職の話では、戦時中の1943(昭和18)年頃、銃や砲弾に使う武器の生産に必要な金属が足りなくなり、寺院の釣り鐘や学校の銅像、家庭の鍋や釜などが次々と軍に没収されましたが、この名鐘だけは没収されずに済んだそうです。

◆1973(昭和48)年4月1日 津幡町文化財(工芸)指定
 本福寺の本尊、阿弥陀如来立像は、像高71.5センチの外削りの木像で、黒梅の木でできています。この像が納められていた木箱の蓋の残欠に記された墨書銘(ぼくしょめい)によれば、越中国砺波郡の縄ヶ池の底から村人が拾い上げ八幡宮に安置し、その後、本福寺に移座したものと書かれています。阿弥陀如来立像は元々、津幡の太白山(おおしろやま)神社に安置してあったご神体で、その如来像の光背(こうはい=仏像の後ろにある、光明をかたどった飾り)は黄金で作られていました。
 ある日、盗賊がこの如来像を盗み出し、砺波郡の縄ヶ池(南砺市蓑谷)の辺りまで来たところ、突然、如来像が重くなり動くことができなくなりました。そこで、この盗賊は光背のみを持ち去り、如来像を池に投げ入れて逃げていきました。その後、縄ヶ池の村民の熊太郎という人が池の中に光る如来像を見つけてこれを拾い、村の八幡宮に安置しました。
 後に「加賀の中条に帰りたい」との如来像のお告げがあったため、熊太郎は南中条の徳兵衛のところに如来像を移しました。その徳兵衛にも如来像からお告げがあり、現在の本福寺に安置されたということです(中条伝説「阿弥陀」の話より引用)。
 前住職によると、伝説とは異なり、如来像が盗まれた当時は金の光背はなく、眉間にダイヤモンドがはめ込まれていたという説もあるとのことです。また、「南中条の徳兵衛」とは、南中条の松島徳兵衛という実在した人物だそうです。
 元は天台宗(てんだいしゅう)だった本福寺は、蓮如上人(れんにょしょうにん)が文明年間(1469〜1487年)に北陸を巡錫(じゅんしゃく=僧が各地を巡り歩いて教えを広めること)した際に、一向宗(いっこうしゅう=浄土真宗)に転宗したそうです。前住職の話では、同寺の先祖は、五箇山から越中、加賀に流れてきた平家の末裔ではないかとのことです。その昔、近隣の村で葬式があると、同寺の住職が駕籠(かご)に乗って出かけましたが、その駕籠の金具に、平家の紋章とされるアゲハノチョウの金具で造られているそうです。この駕籠は現在、笠谷地区の吉倉にある歴史民俗資料収蔵庫で保管されています。同本堂には、歴代の住職の名前が記された家系図の掛軸が飾られています。
 旧北陸道に面する同寺院の山門は、金沢の本源寺が移転の際に、元々は加賀藩前田家の武家屋敷の山門だったものを同寺に移した、由緒ある山門です。
 事前にご連絡いただければ、本堂の「阿弥陀如来立像」見学が可能です。また、駕籠の見学は、津幡町教育委員会生涯教育課までご連絡ください。
津幡町教育委員会生涯教育課:076-288-2125

所在地 〒929-0342 石川県河北郡津幡町字北中条ル72
お問い合わせ先 本福寺
電話番号 076-288-4433
ホームページ
アクセス IR津幡駅から「津幡駅前」交差点を曲がらずに直進し、次の「南中条」交差点を右折し、旧北陸道の町道に入ります。そのまま道なりに進むと、右手に「本福寺」の社号標が見えます。



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