喜多市十郎の碑

倉見村の灌漑事業に尽力した「喜多市十郎」の碑

倉見村の灌漑事業に尽力した「喜多市十郎」の碑

 津幡町の旧家「新田家」は、代々笠谷地区倉見村の十村(とむら)を務めた名家です。新田家の祖、喜多市十郎(きた・いちじゅうろう)は新田義貞(にった・よしさだ)の三男、義宗の子孫で、その義宗が伊予国喜多郡(現在の愛媛県大洲市)に隠棲(いんせい)したところから喜多姓を名乗りました。能登守護畠山氏(はたけやまし)の下臣であった喜多義勝(きた・よしかつ)を元祖とし、羽咋郡北川尻村に住んでいました。
 9代目の市十郎が1796(寛政8)年に羽咋・鹿島2郡の新田裁許(しんでんさいきょ)を拝命し、さらに1803(享和3)年に、河北郡農長の一員に命じられました。その後、井上村や笠井村、笠野村の十村役を命じられ、北川尻村の家を弟市右衛門に譲り、倉見村に移り住みました。1806(文化3)年に御扶持人(ごふちにん)十村となり、倉見村の4ケ所(大谷内・大別当・宮ノ谷・田屋ノ谷)の谷にため池を作り、村民のために灌漑(かんがい)事業に尽力しました。
 それ以来、倉見周辺は干ばつにならない土地となり、1900(明治33)年11月に村民はその功を感謝して、顕彰碑(けんしょうひ=功績や善行などを称えるために立てられる石碑)を建てました。また、同集落の八幡神社の裏山には、江戸時代に建てられた新田家の門が残っています。
新田裁許:十村の役職の1つで、新田開発を担当し、新開した土地の租税率の取り決めや管理をする役人。
十村:他藩でいう大庄屋に相当するもので、加賀藩の村支配を代行する村役人組織の頂点に立つ役職。十村を最高位に、御扶持人、平十村、新田才許、山廻役(やままわりやく)の階層に分かれていた。

所在地 〒929-0455 石川県河北郡津幡町字倉見
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アクセス 津幡町市街地から県道218号線に入り、鳥越方面に向かいます。左手に見える「倉見口」バス停を過ぎると、Y字路に出ます。そこを「倉見」方面に左折し、しばらく行くと、左側に「喜多市十郎」の碑が建っています。



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