鳥越城跡

上空から見た「鳥越城跡」

上空から見た「鳥越城跡」

 津幡町笠谷地区の倉見区から七黒(しちぐろ)区に抜ける「笠野トンネル」頭上の山に、かつての鳥越城がありました。鳥越城は加賀と越中の国境に近い場所にあり、前田利家(まえだ・としいえ)が佐々成政(さっさ・なりまさ)と戦った最前線でした。元々は鳥越弘願寺(とりごえぐがんじ)の防御施設としての砦(とりで)でしたが、1583(天正11)年に利家が佐々軍に備えるためにそれまでの堡塁(ほるい=敵の攻撃を防ぐために、石・土砂などで構築された陣地)を改良し、重臣の目賀田又右衛門(めがた・またえもん)と丹羽源十郎(にわ・げんじゅうろう)に手勢500人を与えて守備させた城です。
 この前田勢に対し、成政は1584年(天正12)年7月、織田信雄(おだ・のぶかつ)を助け豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)を倒そうとして、まず仮生(けしょう)の朝日山(あさひやま)に兵を出しましたが敗退しました。同年9月、成政はこれに報復するため能登の末森城を攻めましたが、城将奥村永福(おくむら・ながとみ)の善戦と利家の援軍により再び敗れました。しかし、敗退の途中、鳥越城の様子をうかがったところ、城中は既に人影はなく、成政は労せずして鳥越城を占拠しました。これは城将の目賀田、丹羽の両名が「末森城落ちる」との誤報により、「末森城が落ちたなら、鳥越城だけ守りぬいてもしかたがない」と、城を放棄したからだと言われています。
 利家はこれを奪い返すため、同年10月兵を出し攻撃しましたが、落城させることができず、1585(天正13)年2月に再び鳥越城を攻めてようやく奪い返しました。同年8月、秀吉軍の越中侵攻により成政は降伏し、その後、利家が加賀・能登・越中の三国を支配するようになると、この城は廃城となりました。
◆1963(昭和38)年5月10日 津幡町文化財(史跡)指定

所在地 〒929-0456 石川県河北郡津幡町字七黒
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アクセス 津幡町市街地から県道218号線を鳥越方面に進み、笠野トンネルを抜けてすぐ右手に「鳥越城跡」があった山(標高60メートル)に登る道があります。現在は登り口に案内板が立っているだけで、急斜面が続く山道を登っていくと、山頂に「鳥越城本丸跡」の標柱が立っています。登り口手前には「広瀬五郎作」の碑が建っています。



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