秀雅上人堂

長楽寺の中興の祖と称される「秀雅上人像」

長楽寺の中興の祖と称される「秀雅上人像」

 長楽寺(ちょうらくじ)の中興の祖と称される秀雅上人(しゅうがしょうにん)は、1547(天文16)年に倶利伽羅の百姓左兵衛の子として生まれ、幼少の頃から越中の安居寺(あんごじ)の秀海阿闍梨(しゅうかいあじゃり)のもとで学び、加賀藩2代藩主前田利長(まえだ・としなが)の信任を得て真言宗寺院の再興に尽くした人物です。特に、初代藩主利家(としいえ)の町建ての中心的人物として倶利伽羅の長楽寺を再興し、金沢卯辰山の永久寺(えきゅうじ)、高岡の総持寺(そうじじ)、富山の富山寺(とやまじ)を復興し、4 つの寺の住職を兼務したといわれています。
 倶利迦羅不動寺の門前から歴史国道「北陸道」を下った沿道に建つ小堂に、上人の等身大座像(像高84センチ)が祀(まつ)られています。上人の寄木造の肖像彫刻で、躰部内面に記された墨書銘から、1614(慶長19)年に泉州堺(せんしゅう・さかい)仏師(ぶっし)藤原朝臣式部法眼道運(ふじわらのあそんしきぶほうげんどううん)によって制作されたことがわかっています。上人は1631(寛永19)年に92歳で示寂(じじゃく=菩薩や高僧が死ぬこと)したことから、本像は上人75歳の寿像と考えられています。上人の墓地は、倶利伽羅公園内の一角にあります。
 躰部内面銘は一部未判読の文字がありますが、趣旨としては、秀雅上人の倶利伽羅山長楽寺での造寺造像事業の一端を記し、前田利光(まえだ・としみつ)が倶利伽羅を永代寄進したことが記されています。長楽寺中興の具体的実績が、胎内に記されていることは歴史資料としての面からも非常に貴重で、「前田家年寄衆連署奉書」等の古文書類からの記録を裏付け、倶利伽羅や長楽寺の歴史を知る上で重要な資料といえます。
◆1997(平成10)年4月20日 津幡町文化財(彫刻)指定
 秀雅上人堂は現在、藩政期に倶利伽羅村の御用宿に指定されていた俵屋(たわらや=俵久兵衛家)が所蔵しています。街道を挟んでお堂の向かい側には、子安地蔵堂(こやすじぞうどう)があります。6体の地蔵とも長楽寺参道に立っていましたが、明治初期に現在地に移されました。

所在地 〒929-0413 石川県河北郡津幡町字倶利伽羅
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アクセス JR津幡駅から「津幡駅前」交差点を右折し、県道59号線に入ります。「白鳥橋詰」交差点を右折し、「浅田陸橋」を超えると、「浅田」交差点に出ます。そこを左折し、倶利伽羅方面に進み、「坂戸」交差点を過ぎると、「倶利迦羅不動寺3km」の案内版が立つ三叉路に出ます。そこを右折し、倶利伽羅峠に続く上り坂を進んでいくと、山森集落の入口で、この坂道は歴史国道「北陸道」と重なり、倶利伽羅山頂まで続きます。山森を過ぎ、倶利伽羅集落に入ると、「倶利迦羅不動寺」手前の三叉路の右側に「秀雅上人堂」があります。



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